『食の王様』開高健 著。食べることと生きることは似たり。







『食の王様』開高健 著。食べることと生きることは似たり。

「輝ける闇」などの開高健の食に関わる随筆。
「食べること」についての書籍を読むようになったのは、もともと辺見庸の「もの食う人びと」から入ったがその後に開高健の書籍を読むようになった。

いずれも戦後を経験している作家でありジャーナリストでもある。
辺見庸については分からないが、開高健については戦後の経験が深く記憶に刻まれていることから飢餓について思うところが鮮明に記される。

したがって、開高健の随筆ならではの美食というよりはゲテモノに近い食について書かれることが多い。
たとえば喫人、たとえば胎盤捕酒、たとえばネズミ料理など。

ベトナム戦争従軍の経験から書かれた小説でもそうだが、彼の書く「食べること」についての欲求を読むと人間の根源的欲求について考えざるを得ない。
それは食欲に限らず性欲や権力欲など他の欲望も例外ではない。

すでに20年以上になる付き合いになる友人が出会って数年ごろにふと「食べることは生きること」と言っていた。
これはあらためて調べてみると、誰の発言というわけでもないが文脈として医食同源と同様の意味で使われていたり、そのもの食を生命維持の活動として扱うときに使われていることが多い。

ところが俺は友人から発言を聞いてから最近までまったく違う意味で理解していた。
「彼が食事をどのように考えているのかは、その人が人生をどのように生きているのかと似ている」
という意味でだ。

人間が一生の上で食べることのできる食事の量は当然のことながら有限だ。
その一回一回を単に生命維持のための栄養補給としてなおざりに済ませてしまうのか、手間暇をかけて美味しいものを家族や友人たちと一緒に囲むのか。

その姿勢は食事だけではなく、その人の他の物事へのかかわり方にも表れるのではないかということだ。
俺自身は前者の適当な食事で済ませてしまうタイプで、よほどの空腹を覚えなければ食べることそのものを怠ってしまうこともある。

生き方についてはどうかと問われれば、たしかに丁寧な生き方をしてきたとはとてもじゃないが言えない。
食べられることや生きていることが当たり前だと思っているから雑な扱いをしてしまうのだろう。

開高健は本書の一説でこう書く。

「欠乏、抑圧、拘束ーーこのなかで人はかえって生き生きする場合があります。(中略)いまのように、ソフトで、オープンで、リッチな時代には、若者は暖簾に腕押しで、なにをしていいかわからない。それでインポテンツになるのが多いらしい。(中略)不自由、抑圧、拘束、欠乏、飢餓ーーこれらがあるから求めるんで、なにもかも満たされていると、やっぱり勃起しなくなるんじゃないだろうか。」

「モチベーション革命」で尾原和啓氏が主張していたことと一致する。
また、開高はこうも言う。

「……楽しみは無限にあるのだから、そのなかからわざわざひとつのものを買ってやろうかというときには、よくよくの動機があるわけです。そこには、彼らにとってなにか本物がなければならない。……」

これもつまり、若い世代が何かを求めるときには彼らなりの「偏愛」があるということを指している。
また、そこから続けて、若者が価値を確認するのは口コミが基本となると言う。

だから生産者は本当に質の良いものを作っていかなければ淘汰されるとも。
ただ、口コミをマーケティングの一手法として組み込むバイラルマーケティングが珍しくない現在では、良いものを生産するだけでは、企業が生き残っていくことは難しいのではないかと思う。

様々な食について語られた本書の終章は「水」についてで締めくくられる。
ゲテモノから水へ、胎盤補酒から蒸留酒へ。

雑多なものから最終的には洗練された単純なものへ。
ただし単純な中にも深さを備えたものへと落ち着く。

しかしいまさらながら、根源的欲求については何も考えずに表層的な生き方について思いを巡らせてしまっている。
これも開高の言うように、経験していないことは深く考えられないということか。

まぁいいか。

とりあえず、冷凍庫でキンキンに冷やした、とろりとしたウオッカを飲もう。




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