『偶然のチカラ』植島啓司 著。正しい選択は自分で証明できない。







『偶然のチカラ』植島啓司 著。正しい選択は自分で証明できない。

人は果たして選択が正しかったかどうかをけっして自分で確かめることはできない。

「未来が見えないとき、いったいどうしたらいいのか」という問題提起から始まる。
回答はいくつもあり、ケースに分けて考察がなされる。

まず、人生で絶え間なく迫られる数ある選択。
それに対して我々は主体的そして合理的に判断できているだろうかと問われるが、合理的に選択しているようで、その実、偶然の要素によって大きく作用されている。

例えば、たまたま所属していた組織での出会い、たまたまテレビで見た商品など、選択肢そのものが偶然によって提示される。
では数学的な確率計算を駆使することで偶然をコントロールできないかと、確率の話題へと移る。

これについては、大前研一氏が自己変革の方法について「住む場所を変える、時間配分を変える、付き合う人を変える」と繰り返し主張していることが思い出される。
住環境と習慣、交友関係を変えることはすなわち日常的に触れる情報を変えるということで、それは無意識から提示される選択肢を更新することにつながるからだ。

その意味でこの自己変革の方法は偶然をコントロールするということでもあるのではないか。

さて、続いて、確率で偶然をコントロールすることについては早々に否定される。その例として「モンティ・ホール問題」が示される。
これは「A,B,Cの選択肢が示される。正解は一つ。あなたがAを選択した後にCは不正解だと明かされる。あなたはAからBへ選択を変えるべきかどうか」という問題。

正解は「選択を変える」だが、それは直感的に納得しづらい。
「直感的」とあるが「選択を変えない」場合にも、当事者は「合理的」に検討しているつもりなはずで、そこに落とし穴がある。

当事者にとって合理的な選択は必ずしも客観的には合理的ではないのである。
当事者の合理的選択には、無意識に様々なバイアスがかかっている。認知的不協和、サンクコストなどなど。

では、すべて起こってしまったことは必然であったと考えるのはどうだろうか。
個別の事象が特殊で、ありそうもないことに思えても大局的視点から見ると十分にあり得ることである。

それが自分に降りかかったことは、人生において何かしらの意味がある必然なのだと。
この予定論的考え方は科学的に証明できていないが、証明できていないから存在しないということにはならない。

余分なバイアスを取り除くために有用であるのだから無下に否定することもないだろうと説かれる。
複雑系や因果論(因縁)やビッグデータなどの研究が進めばいずれ明かされる可能性もあるとも。

「未来が見えないときにどうすればいいのか」の結論としては

  • 予定論的立場をとって無駄な意思決定バイアスを取り除きましょう
  • 悪い流れに乗ってるならば小さなことから改善して、流れを変えましょう。
  • 良い流れには乗っておきましょう。

ということだろうか。

感想

断章形式となっているためか、一貫した流れがなく迷子になりやすかった。
ただ、冒頭の問いに対して、様々な例や理論を紹介しつつ、あっちへ行ったりこっちへ行ったりとするのは楽しくもあった。

含蓄のある祖父の話を興味深く聞いている孫になったような気分がした。
AIの進歩が進んで、ラプラスの悪魔も捕まえることができる日もいずれ来るのかもしれないが、いつのことになるのやら。




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