やりたいことがあるならば、まずは書き出してみることだ。
そうすれば、不思議と願望は叶う。
なんてことは書いていない。
そこらへんに転がっている、耳に心地よい言葉で綴られた自己啓発書みたいなヌルイ内容を期待して本書を手に取ると、安酒のように混沌とした読み心地に悪酔いしてしまうだろう。
いかにも品行方正な教科書然とした装丁に騙されてページを開く前に、ひとつ深呼吸をして、これから猥雑な世界の一旦に触れるのだと覚悟しておこう。
煽るだけ煽るのも申し訳ないので、覚悟がしやすいように本書の内容を少しだけ紹介すると、本書は、現在は小説家でありラジオDJであり俳優でもある著者が、気の向くままに海を渡り放浪の旅を続け、酒と女とドラッグに溺れ、快楽や苦悩と向き合ってきた人生を語る自伝的エッセイだ。
100のリストはその体験を語るためのインデックスに過ぎないが、それだけでも十分に刺激的な内容が予想できるものとなっている。
たとえば「娼婦と恋をする」あるいは「刑務所に入る」。
「ギャンブルで飯を食う」なんてものもある。
どうだろうか。
このタイトルに少しでも興味をそそられたのならば、なにもためらうことはない。
表紙をめくり、著者とともに混沌と活気に満ちた旅に出よう。
自分の欲望にすら誠実になれない人間が他人に信じてもらおうなんて、虫のいい話でしかない。
私事だが、僕は他人の欲望に寛容だ。
だから、人がなにを望んで、そのためになにをしようが基本的に僕はそれを条件付きで認めることにしている。
にも関わらず、自分自身の欲望については随分と長いあいだ憶病なまでに厳しく検閲をかけ続けてきた。
そしていつしか、「その願いは周囲の期待に沿えるものなのか、社会的に恥ずべき行為ではないのか」と検閲が自分の中で繰り返され、本来湧き出るはずだった欲望や願望はすっかり鳴りを潜めて大人しくなってしまった。
そんな過去の僕を嘲笑うかのように、著者はすべての欲望を赤裸々にぶちまけ、そして事の顛末を淡々と記していく。
そこでは、ドラッグ、倒錯した性、死や別れなど文学的とも言えるテーマが多く扱われるが、その筆致は軽やかで息苦しさを微塵も感じさせない。
それどころか、洒脱なユーモアには村上春樹の書く空気感を、そして、泥臭く、ときに血なまぐさい暴力的なまでのエネルギーを感じさせる体験は村上龍の世界観を彷彿とさせる。
それはおそらく、本書で語られる体験の多くが1960年代という特殊な時代であることが大きいのだろう。
1960年代といえば、ヒッピーを代表とするカウンターカルチャーの時代だ。若いころにウッドストックフェスティバルのDVDを観てからというもの、すでにこの文化の虜になってしまっていた僕は本書を読んでいるあいだ幾度となく、生まれる時代を間違えたと自分の運命を嘆いてしまった。
自分の境遇に嘆くのも飽きたころに、じっと背中を丸めて活字を追っていた目をとめて、シドニーのブックショップで乱痴気騒ぎをしている著者と僕との違いに思いを馳せる。
著者は外国人の血が混じったハーフで、戦後有名であったタレントのご子息でもある。
一方、僕は片田舎に生まれた、なんの取り柄もないただの日本人だ。
当然、時代もなにもかも違うのだから、著者と同じ価値観で同じように振る舞えばどうなるのかは考えるまでもない。
それでも、この波乱万丈の人生をなぞっていると、ひとりの哲学者の言葉が思い出された。
「欲望は人間の本質である」
これは自然主義哲学者であるスピノザの言葉だ。
人間は欲望を持つことになったからこそ、文明を進化させ発展させてきたのだから、欲望は否定すべきものではなく、肯定すべきものだと。
とはいえ、この欲望は本能的な欲求に限られない。
「無欲でありたい」「善良でいたい」といったこともスピノザの定義する欲望のひとつだ。
なるほど。では、自分が感じていた「周囲の期待に応えたい」「社会的に排除されたくない」という思いは欲望だったのかと自問すれば、否と言わざるを得ない。
僕は善良でありたいとも無欲でありたいとも、欲したことはない。
そうすることが当然だと勝手に思い込んで、自分で自分を封じ込めていたに過ぎない。
では、著者はそのような経験もなく生まれながらに自由な精神を持っていたのかといえば、そんなことはない。
実は僕が冒頭のように紹介した著者は、はじめから破天荒な人生を歩んでいたわけではなく、20代そこそこと思われる時期から数年間、地獄のような精神的落ち込みを経験している。
そこから、あることを転機として自分の感情に素直に向き合いはじめ、そして現在に至っている。
著者自身、そのことで自分に起きた変化について本書では語られているので、詳細は彼に譲るとして、僕が本書で学んだ大きなことは、自分の欲求を認めてオープンに生きていれば、自分も楽だし、結果として信頼できる人たちが周りに集まってくるものだ、ということだ。
ただ、環境に合わせて自分を変えていくのではなく、自分に合う環境を探していくことができるならば、という留保がつくのは忘れてはならない。
そして、その過程では、なにかを得るためになにかを諦める必要があるということも。
言い忘れたが、他人の欲望に寛容な僕が、それを認めるただひとつの条件は「自分の欲望を認める」ということだ。
僕は、人は誰でも自分の利益のために自分勝手に生きて良いと思っているし、そのためには他人を蹴落としたり傷つけたり、騙したり裏切ったりと色々と残酷な決断をする必要に迫られることも仕方がないと受け入れている。
だが、その行動の原因を自分の欲望ではなく環境に求めたり、やむを得なかったのだと合理化するような人間は、心から軽蔑する。
道は示してくれないが、地図の書き方は教えてくれる
本書は冒頭で示したように、口当たりの良い自己啓発書ではない。
なにをしたらいいのか、どこへ行ったらいいのかなんて教えてはくれないし、ヒントもない。
そうやって追い立てられないとどこにも行けない子羊は、占いにでも行って他人に目的地を決めてもらえばいい。
しかし、本書は占い師と違って何も決めてはくれない。
「俺はこれがしたいからこうやって、こうなった」という著者自身の体験が綴られているだけだ。
だがきっと、著者の混沌に満ちた旅路を追体験した読者は「自分は何者でなにがしたいのか」と自分の中で疑問が湧き上がるのを押さえられないことだろう。
もちろん、その問いに答えるかどうかは読者次第だ。
しかし、ここはひとつペンを取って、人生の100のリストを作ってみてはどうだろうか。
僕は最初のうちは4つしかリストを書けなかったが、それが10、20と増えてくるにつれて、自分の人生の地図が見えてきたような気がした。
きっとあなたにとっても、自分の欲望に向き合う貴重な時間となるのではないかと思う。