エンジニアでなくとも読むべき良書!『エンジニアの知的生産術』西尾泰和 著。




エンジニアリングとは、自然科学や社会科学ときには人文科学などの知見を利用して社会に有用な環境を構築すること。

ならば、その技術の基礎となるノウハウを社会の一部分である自分に適用していけない道理はない。

本書はエンジニアのためのと銘打ってはいるが、むしろエンジニアではない人にこそ読む価値のある良書だ。




エンジニアでなくとも読むべき良書!『エンジニアの知的生産術』西尾泰和 著。

僕はエンジニアではない。むしろエンジニアとは遠く離れたカフカや遠藤周作、ヘミングウェイなどの文学にどっぷり漬かって生きてきたタイプの人間だ。

その僕の経験から言って、文学は迷いを払ってくれるどころか、人間というどこまでもわけの分からない闇の中に僕を放り込み、ただでさえ面倒な世の中をさらに生きづらくする。

にもかかわらず、闇に漂う時間は心地よい酩酊状態をともなって、いつしか僕はおぼつかない足取りで人生をうろつく青白い顔の中毒患者になってしまう。

そんなとき、僕は科学に一服の清涼剤としての助けを求める。

瓶に詰めてラベルを貼る簡単なお仕事

頭は熱を持っているのに鳥肌が立つような寒気も感じる、きしむような関節の痛みもある、そんなときにあなたは「風邪でも引いただろうか」と考えて、温かい食事とたっぷりとした睡眠でやりすごそうと考えるだろう。

だが、一向に体調は戻らず熱に浮かされた頭で「これはひょっとすると風邪ではないかもしれない。病院にいこう」と不安に襲われ、そそくさとかかりつけの病院へ足を運び「心配ありません。ただの風邪ですよ」との医師の言葉に安どのため息をつく。

よくあるこの光景を見かけるのは、なにも季節の変わり目だけではない。

職場で、街角で、喫茶店で、誰かが誰かの不安に名前をつけて処方箋を出している。

本当に自分が罹患している病気がそれなのかも確かめず、権威に従って主成分の分からない薬を盲目的に飲んで安心する。

もちろん、プラセボだろうがなんだろうがそれで効果があるなら問題ない。僕だっていちいち薬の分子構造を調べてから薬を飲んだりはしない、副作用だけ気を付けてそれで仕舞いだ。

だけど、ビジネスコンサルタントが処方するソリューションだけはどうしても違和感がぬぐいきれず飲み込む気になれない。

問題という砂をフレームワークの瓶につめてラベルを貼るだけの簡単なお仕事だったら僕にだってできる。

しかし著者は僕の疑念を先回り、本当に創造的な知的生産術を語るうえで、フレームワークが効率的な思考に有効だと認めつつも、思考が枠にはまり固定化される危険性も指摘して、僕の不信感をぬぐう。

では、本当に創造的な知的生産とはなんなのか。

創造性とは幽霊

ここからは本書で得た知識を背景にしつつも僕の言葉で語ろうと思う。

唐突だが、僕は不思議な体験に巡り合う体質だ。電源につながっていない家電製品が稼働するなんてのは珍しくなく、どこからの力も加わっていない物質が移動する現象にも出くわす。

それらの現象について、僕はなにか特別な意味付けをすることもなく、まぁそういうこともあると素通りして生きてきた。

これは極端な例だが、僕が言いたいのは違和感や不自然さこそが創造性の源泉なのだから目を背けてはいけないということだ。

物理的に説明できない現象だからそれは心霊現象だ、などと結論付けようということではない。

それでは既存のフレームにあてはめているに過ぎない。

心霊現象ともとれる違和感を無視するのではなく、既存の知識にあてはめるのでもなく、とりあえずは幽霊の「ようなもの」を認めること。そして、それを既存の類似した現象と並べ、比較し、言語化する。

つまり、知的生産とはそういうものなのではないだろうか、ということだ。

もちろん、簡単なことではない。

幽霊「のようなもの」はそうそう現れるものでもないし表れても一瞬のことだ。直視するのは勇気がいるし、それを正しく分析して言語化するのはさらに困難だ

幽霊はどうやったら見えるのか

20歳までに幽霊に出会えなければ一生出会えないとも言うが、知的生産のきっかけはいつでも見つけられるようになる。

そのひとつの方法として、著者はKJ法の詳細な使い方を本書で教示してくれる。

KJ法なんて新卒社会人のころに研修で習ったぞなどと読み飛ばすのはあまりにもったいない。

本書では正しいKJ法の使い方が述べられているが、それについてはぜひ実際に書籍を読んで学んでほしい。

捕まえた幽霊を実体化させる

KJ法で捕まえた違和感にうまく名前がつけられないのならば、もしかしたら使う言語が間違っているのかもしれない。

言葉で捕まえづらいなら数式、あるいは図解もありえるし、音学や造形など様々な言語を利用して表現することが考えられる。要は自分の外に出せればいいのだ。

そして外部化されたものを再び操作して、はじめに感じたものに少しずつ近づけていけば、いずれ幽霊「のようなもの」は実態を持った「なにか」になる。

その「なにか」こそが知的な営みによって生産されたものだ。

余談だが、僕は「学」のつくものはすべからく何かわからないものを、分かるように外部化して実体化させていく営みだと考えている。政治は人々の営みだが政治学は政治の何たるかを追求したものだし、歴史も人々の歴史的な営みだが歴史学は歴史そのものを追求したものだ。

その意味で僕は、音楽は実は音を通じてなにかを追求した「音学」なのではと思っている。

知識の知恵化

あらためて本書を紹介すると、本書はエンジニアが知的生産をするために、どのように学んでいけばいいのかという方法論を述べているものである。

最終目標は、知識のコレクションではなく実際にその知識を活かせるようになること、つまり知識の知恵化である。

著者自身も読者にたいして、本書で紹介されているノウハウを鵜呑みにするのではなく、自分に合った方法にカスタムすることを推奨している。

たとえばプログラムコードの書き写し、いわゆる写経の効率の悪さ。

サンプルプログラムを書き写して実行するのはたしかに学習成果があると認める。

ただしそれは、いったい何が分からないのかが分からないという初学者に限ってである。初学者以外には、あまりにも非効率だから盲目的に写経すればよいものではない。

ちなみに、本書では写経は補助輪にたとえられている。

補助輪をつけた自転車に乗れば、自由に自転車を操る体験はできるが、いつまでも補補助輪をつけていても自転車に乗れるようにはならないと。

本書で例に挙げられているのはプログラミングを学ぶときの話だが、単純に文章を上手に書きたいと考えて写経をしている人がいたのならば、それは補助輪をつけて自転車に乗っているだけだという自覚をした方がいいだろう。

仮説検証を繰り返すには人生は短すぎる。

本書の基礎にはデミングサイクルと現状の測定が重要な前提としてあるのだけれど、後半では仮説検証のサイクルは必ずしも万能ではないとも語られる。

数学的な正しさとは一切の例外を認めない絶対的な正しさで、科学的な正しさとは仮説と検証が繰り返された十分な再現性があるという正しさ。

しかし、一回性の人生においては仮説検証を繰り返すには時間が足りなく、科学的な正しさで意思決定できない場面が多い。

では、未来の予測できない人生の暗闇の中では、どうやって進む方向を決めればよいのか。

著者は大きく2つの方向性を示す。

一つは楽観側に倒れることが合理的だという方向性。もう一つは経営学の視点を人生に転用すること。

自分を一企業と考えて経営学の視点を転用することについては異論はない。経営とはリスクの極小化なので、当然に自分の人生についてもそのようにすべきだろう。

楽観側に倒れることについても、そのとおり。

無責任にむやみやたらと挑戦を煽る人の言い分は信じるにあたいしないが、工学的な設計方法を例に同じことを説明されると説得力がまったく違う。

やるかやらないか判断に迷うときに、何ら根拠のない占いに頼るよりは楽観側に倒れるほうがよほど納得できる判断ができる。

まとめ。 難しいものは難しい。

正直、本書はエンジニア向けと銘打っているだけに、基本的なプログラミングの知識がないと読んでいて詰まるところがあると思う。

それでも、しっかりと言葉の意味を追って理解を進める価値は十分にあった。

メタ志向、仮説検証、効率的読書、記憶術、発想法など本書で得ることのできるノウハウは必要にして十分。

思考術について何を読むべきか迷う人は、意識は高いが内容は3行でまとめられるような内容の本をたくさん読むよりは、本書1冊を3回読むべき。

僕は数学が窮屈すぎて肌に合わないと高校時代に理系から文系に転向したのだけれど、実用性を追求した無駄のない理系的な考え方は今でもとても美しく感じる。

化学系の研究職をしている家族に、理系に進むべきだったかもと漏らしたら「けっきょく書いてるものが日本語からプログラムコードに変わってるだけで、今とそんなに違わないと思うよ」とのことだった。

たしかに。どのみち売文業だ。




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